エンターオン社長 島田善生の連続伝記執筆について
前回当社制作の、看護師、新井サダさんの伝記「くちなしの花のように」について少しご紹介をしました。この様な正式な出版は、当社としては2冊目なのですが、ことのついでに何故コンピュータ屋の我々が2年半の間に2冊も本を出すことになったのか、その経過について述べてみたいと思います。
伝記出版-業種としても内容としても全く専門外の仕事に、この出版不況下、何故関わったのか、外部のみならず内部的にも随分と首を傾げる向きがありましたがきっかけは単純なことでした。当初執筆を依頼していた"本命"の方が体調を崩されたことによるピンチヒッターが見つからなかったからなのです。
一冊目のモデルは榊多嘉子さんとおっしゃる埼玉を代表する女傑でした。国鉄労働組合初代婦人部長にして市議会・県議会の議員も長く勤められた方で、我々が所属する組合の理事長でした。この方の主催するある会が催される2006年の秋迄に、理事長の伝記を出版すると宣言していたにもかかわらず、その年の春先に執筆者が不在となったのです。しかし半年ほど先の出版予定日が決まっていたのでは、88年間の激動の生涯を描くのは不可能と、有名無名の何人かの作家さん達から敬遠され、ならば身近の我々が自らの手で完成させようということになったのです。
といっても執筆者として白羽の矢が立った当社社長、島田は全盲です。取材に行くにせよ、資料を渉猟するにせよ、全て数人がかりで初めて可能ということで、当初は苦労の連続でした。取材し、調査し、得た結果を電子データにして島田に渡す、それを島田が音声で聞きとりながら、独特の筆致で書き上げていくのです。
榊多嘉子さんは議員としては埼玉県議という地方政治家であった方ですが、元の活動の舞台であった国鉄は全国組織であり、人的交流も極めて広範囲です。場合によっては国会議員や中央官僚も顔負けとも言えるほどです。とても半年で、しかも視力のギャップを抱えた島田や門外漢の我々に簡単にこなせる内容ではなく、当初の予定に遅れること1年でした。つまり結果的には2007年の秋の刊行となりました。
第一作「榊多嘉子伝」制作の動機は、組合の代表として御懇意にして頂く間に、榊さんの業績が想像を超える規模と内容であることが分かってきた事です。
国鉄に於いて、戦時中は足りない男手に替わって駆り出され、十分以上の仕事をこなしていた女性職員達が、戦後間もなく、男性職員達が復員してくると同時に解雇され始めたのです。女性は男性の補充要員でしかないのか、使い捨て部品なのか、女性達が異議を申し立てたのは当然過ぎることで、その先頭にたったのが榊さんでした。
当時の運輸大臣や国鉄総裁との丁々発止のやりとり、逆に組合内部の反対派からの攻撃
など、肉体的危険にもさらされながら、弱者にとっての理屈ではない現実的成果を追求し続けた榊さんの一生は、体制派も反体制派も、インテリも非インテリも、学ぶべき事が少なくないと思います。
議員になられてからの榊さんの功績は多々あるのですが、我々が驚いたのは、武蔵野線の複線化や埼京線の開設に、そして新幹線開通に大きな役割を果たされたことです。
自民党から共産党まで全議員反対の東北上越新幹線地上化を、成田空港の様な修羅場を見ることなく、無事達成の裏には元国労婦人部長の粘り強い活動があったのです。
更にその榊さんが、不幸にも妹さんを病気で亡くされた時、入院されていた大宮日赤での看護を通じて、当時の看護部長新井サダさんと、妹さんの生まれ変わりのような関係が生まれるのです。その後は新井さんの念願である地域看護研修センターの建設、看護系県立大学の設立、最近では介護施設運営など、いずれも難問山積みの大事業を榊・新井の二人三脚で大企業や役所顔負けの業績を残されていくのです。
また全ての事業を通じてのお二人の共通点は、男尊女卑の思想との闘いです。
第一作目の「榊多嘉子伝」制作の過程で以上のような"史実"に触れるところとなった我々は、いずれ第二作として「新井サダ伝」を出さなければ、今回の仕事は完結しない様な気がし始めていました。そしてその後そういう要請をお受けするところとなったのです。
それでは何故、パソコン屋・IT屋の我々が出版という異業種に敢えて手を染めたのかについては次回に。
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