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2010年1月14日 (木)

島田善生書き下ろし「くちなしの花のように(新井サダ伝)」発刊

 「くちなしの花のように」は、当社㈱エンターオン社長 島田善生が一年がかりで書き上げた、埼玉県が誇る看護師「新井サダ」さんの伝記です。

  新井サダさんはある日突然、日赤の看護学校を繰り上げ卒業となり、卒業証書と同時に受け取った召集令状に基づき敗色濃厚のアジア戦線で病院船勤務になるという、 超異色の、今いう社会人スタートをした方です。

 傷病兵を戦地に迎えに行き日本に送りとどけるという救護員(従軍看護婦)としての,    命懸けの職務を全うされ、その後はフィリピンの病院で看護に当たられました。これらの救護活動で看護婦の同僚32名の方が犠牲になられています。

  戦後は看護職の待遇・資質向上に全力を尽くされました。それらの業績が評価され、看護職として世界最高の栄誉である「ナイチンゲール記章」を受賞されています。

 今では信じられないことですが、戦後間も無い頃の日本では、看護婦さんは結婚したら退職しなければならなかったというのです。それくらいですからやっと結婚を認めさせても子供が出来たら退職を強要され、それまで積み立てていた年金はわずかな祝い金を支給される以外は没収いうのですから、これが本当にたかだか60年余り前の日本の姿かと、疑いたくなるほどです。戦中戦後の空襲や物不足の厳しさ・恐ろしさはしばしば聞かされるところであり、その非情さ、非人道性については衆目の一致するところですが、一方で当時の日本社会そのものの中にあった理不尽きわまりない人間観や職業差別に、驚くと同時に、憤りさえ覚えます。

 それらに先頭切って戦いを挑んだ先駆者達、そしてそれを周辺で支える支援者達の粘り強い活動こそが今日の日本社会の土台となっているのだと、本書を読んでつくづく思い知らされた次第です。

 この新井サダさんが姉とも慕う榊多嘉子さんも、やはり大変な女傑で、この方と二人三脚で実現された大事業もあるようです。

  榊多嘉子さんの伝記も我が島田善生の手でえがかれています。
  この埼玉県が誇る二大女傑について、少し続けて触れてみたいと思います。

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